前回の釜山行きの時に、井戸茶碗の窯跡、御本茶碗の窯跡を訪ねてきたので、その時の想いを書いてみます。
名もなき陶工の茶碗
それは四百年の時を超え
今なお燦然と光を放っている
秀吉の朝鮮出兵は別名 「茶碗戦争」 とも呼ばれ、現在の茶の湯に深く影響を与えている。
戦乱の世の「茶の湯者」たちの眼力は驚くほど優れ、祭器として使われていた器を「茶の湯」の茶碗として取り上げた。
「茶碗の王様」 井戸茶碗もそのひとつである。
不思議なことは二十一世紀の現在、これほど科学の発達をみても当時の茶碗は作れないという事実だ。
土、火、釉薬、窯、そして 名もなき陶工の技術、すべてが揃わないと この名碗たちは誕生しえなかったのだ。
釜山から車で一時間ほど。人里離れた山の中腹、現地の人でも初めてでは わからないであろう田んぼ道を進んでいく。
そんな 山あいに、井戸茶碗のふるさとはあった。
また不思議であるが井戸茶碗の窯跡は つい三十年前まで発見されなかったのである。
残念ながら現在の窯跡は見ることができないが、窯跡のすぐ下にいる陶芸家方のお宅へお邪魔して、窯から発掘された茶碗や陶片を拝見させていただいた。
そこには部屋中に井戸、三島、刷毛目、等で埋め尽くされていた。一歩足を踏み入れた瞬間から魅力いっぱいの空間が広がっていた。
その中でも目を引くのは、もちろん井戸だ。そこいら中に井戸、井戸、井戸。高台や陶片とはいえ、こんな多くの井戸を一度に見るのは初めてで、胸踊り拝見した。
そうこうしていると、その陶芸家の方が特に お気に入りの物を裏から出していただいて、特別に拝見させていただいた。
とにかく、それがまた凄くいい。
出てくる言葉は「これいいよ」「これすげえ」「これもいいねえ」こんな言葉の連発・・・
時間を忘れて食い入るように拝見した。最後には 井戸の馬上杯 が現れてボルテージは最高潮に。我々 美術商ならずとも茶碗に興味のある者なら至福の時が過ぎていった。
まあまあ一服ということで番茶を頂戴する。 この茶碗がまた 粉引、刷毛目と魅力たっぷりの茶碗たち。高まる気持ちで番茶をいただくが、こちらも商売人。
「この茶碗 分けてもらえるのかな?」友人と小声で相談する始末。
心の中で あと一週間居てもいい。との気持ちにさせられたが、その強い想いを押し殺し 熊川 の港へ向かったのだった。
熊川の港では、四百年の前、ここから遠き日本まで荷物が運ばれたのかと、思いを馳せたのも束の間、陶芸家の方にお昼をご馳走になったのだが・・・
いきなり焼酎で乾杯。見慣れない刺身をいただくが・・・ 通訳してもらったら ボラ 。さすがにボラの刺身は初めて食べた。 注がれるままに飲むが さすがに昼間の焼酎は効く。前日の深酒も手伝って なかなか食が進まず・・・ どうして食べないんだ、と陶芸家の方に促されるものの なかなか・・・
ならばと焼酎をあおる。 やっと ボラ が下げられ やれやれ と思ったが なんと残った ボラ くんたちが辛い赤いものに 和えられ再登場! あったかい、ご飯も運ばれた。こうなったら食べるしかない。焼酎と港の生水で ボラくん を流す。流す。。。
その夜は ホテルの部屋から一歩も出れなかった・・・
参鶏湯(サムゲタン)を食べ損ねた小生 ボラくん と 生水 で 旅行史上、最大のピンチで生涯忘れ得ぬ一夜となった。
しかし もっと残念なことがある。 結局 私は 粉引 の茶碗を東京へ持ち帰った。
しかし、友人に もっと魅力たっぷりな 物を取られてしまったのだ。 ぶち割れた 井戸の盃だ。
友人は傷だらけのその盃を 蒔絵で修復して、先日 私に見せてくれた。
姿を取り戻したその盃は、蒔絵の輝き以上に光輝いていた。
なぜこの盃が我が手元にないのか・・・ 残念でたまらなく悔しく思い出すだけで夜も眠れないのである。
逃した 魚 は ボラよりも大きい・・・
熊川(こもがい)の 港に光る井戸茶碗
大魚 逃がしや ボラの一声
宗超
韓国 釜山 道中記3 「井戸茶碗」 のふるさとを訪ねて
2012.06.25